人生を半分降りる
前回からの続きで「『人生を半分降りる』(中島義道 新潮OH!文庫)について、もう少し触れてみたい。しかし、前に書いたように、この本は、哲学学者の知識のひけらかしと、生活におけるグチが綴られているだけで、読み終えてしばらくしてみたら、なにも残っていないのに気がついた。ただ、タイトルだけが印象的なのである。
要するに、人生を完全に降りてしまうということは、ありえない。半分降りても相当に抵抗がある。それに抗って生きてゆくべきだという話である。ただ、著者が副題にしている「哲学的生き方」にどれほどつながっているかといえば、疑問である。年金をもらえるようになって、食ってゆければ、部屋にこもってそれなりに世間と断絶した生き方ができるに違いない。しかし、それを「哲学的生き方」と呼べるかどうかは疑問である。
どうやら、「人生を半分降りる」なんていうことは、単なる言葉遊びのような気がしてきた。著者の言う「哲学的」という言葉も言葉遊びに感じるのである。イデオロギーとまではいかなくても、われわれの年齢になれば、なにか生き方に対するこだわりというか自分なりの固執ができてくる。それを「哲学的」と呼ぶべきなのかどうか?
きょうは、栗の花をアップします。明科から池田町に抜ける途中で撮りました。バックの山は蓮華岳かと思います。あの辺は、後ろに山を入れてとればそれなりに写真になってしまう。
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