2006/9/29 金曜日

風景写真論 (9)

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 21:52:44

 毎日、断片的に思いつくまま書いているので、とても論とは言いがたいものになってきた。それでも、何の写真を撮るのか。なぜ、写真を撮るのか。どのようなスタンスで写真を撮るのか。自分に問いかける気持ちでいる。

 前回では、プロを手本として写真を撮るのはいいにしても、アマチュアカメラマンはあまりにそれに縛られてしまっているのではという危惧の気持ちで書いてみた。しかし、初心者の私にしてみると、まだしばらくは、プロの写真をお手本としながらいろいろとテクニックを身に着けてゆく時期なのだろうと思っている。

 花の写真をアップしてとることは、楽しい。私にとって、マクロレンズの向こうにある花の生態は、まさに未知なる自然との出会いなのだ。そして、今、花の名前を覚えることに楽しみを感じている。人と親しくなるには、まず相手の名前を覚えなくてはならないが、自然と親しくなるのも同じことだと思う。自然の名前を覚えることから始めようと思う。山も同じ。山の名前を覚えるだけで、ずっとその山に愛着が湧いて来る。

 知らない花の写真を撮って帰って来てから、その花の名前を調べる。そのためには、アップの写真ばかりでなく図鑑写真も撮らないといけないのだが、帰ってみてみると、花だけを撮ってきていることが多い。今もわからない花があって調べているがわからない。インターネットにそういうのに答えてくれる掲示板があるので出してみようかと思っているけど、それまでにもうすこし調べてやろうという気になっている。

 高原を歩いていて、知らない花を見つけると、うれしくなる。自然と接する喜びというものは、そういうものではないだろうか。そして、それらの花を写真におさめてきて、予想以上の雰囲気で撮れていればそれでいいと思う。私の写真に対するスタンスの基本をそこに置きたい。

 ただ、アップばかりだと、ちょっと物足りない。イメージ的に美しい花なら、花屋から買ってきて、ライティングとバックを工夫して撮れば自然の中で撮るよりもずっと、印象的な写真になるだろう。しかし、それでは、つまらない。自然を撮っていることにならない。自然の中にある花、例えそれが路傍の花であろうと、そういう花を撮影したい。そうなると、まわりの景色も入れてみたい。すると、アップ写真では難しくなる。

 夏梅陸夫という植物写真専門のカメラマンが、「植物風景」というジャンルを提唱しているのを読んだ。植物を主題としながら、周りの風景も入れて撮る風景写真というわけで、特別な写真ジャンルでもないだろうが、興味深い。時々、そのことを意識して撮ったりしているが、花をアップで捉えるよりずっと難しい。バックがそれなりになくてはならず、といって、バックがうるさくなってしまうと、主題の花がめだたなくなってしまう。むずかしいものだと思う。

 それと、小さい花は、そうやって撮ることは、ほとんどむずかしい。名前を覚えてから、あちこちで見るようになったゲンノショウコなどは、アップでしか無理だと思う。

 きょうの写真は、ワレモコウをそんな意識で撮った写真だけど、背景をもう少しボヤかせばよかったかと思う。

ワレモコウ 千曲市大池

2006/9/28 木曜日

風景写真論 (8)

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 21:48:43

山岳写真家の川口邦雄が「どうしたら、あんなにきれいな写真を撮れるのですか」と聞かれたら、「簡単だよ。ぼくの横で撮ればいい」と答えたという。実際には、隣で撮っても同じ写真は、撮れない。どこをどう切り取るかは、写真を撮る人にゆだねられている。

 前に書いたように、今年は、市立図書館から写真の撮り方の本を借りては読んでいるというか見ている。どの本も解説は同じで、定石というのは、ほぼ同じなのだろう。中に、構図というテーマがあり、黄金分割がもっとも安定している構図で、日の丸構図はいけないと書いてある。構図の勉強となると絵画の世界だ。しかし、構図では絵画に勝てない。北斎の波裏富士などは、現実的にはありえない構図である。ただ、デジカメは、合成ができるので、ありえない構図を作ることができるが、その辺もあとで論じられればと思う。

 花鳥風月と、写真はこう撮るというプロの解説、そして、美しい写真を撮るには、プロが撮ったいい景色をそこに行って撮ればいいという条件を重ね合わせてゆくと、アマチュアは、プロの足跡を一生懸命追っているみたいものだ。プロの写真家の隣で撮っているようなものだ。

 しかし、学びはまねびである。将棋だって、定跡というものがあり、初手は、76歩か86歩である。私も花の撮り方の写真の本を借りてきて、前ボケ、後ボケ、朝露がついている、トップライトはダメ等等のテクニックをプロの作例を見てはまねをして撮っている。

 でも、美しく撮れればそれでいいのだろうか。

サラシナショウマ 戸隠スキー場附近

2006/9/27 水曜日

風景写真論 (7)

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 22:11:12

レスありがどうございます。そうなんです。バスで移動する老人カメラマンの集団。わたしには、どこか異常に映るのですが。私は、ああいう群れには入らないと思います。

さて、風景写真論も本題に入らないといけません。今、花の写真ばかり撮っています。これらの花のアップ写真は、風景写真に入るのでしょうか。厳密に言えば入らないのでしょう。風景ではありませんから。自然写真、ネイチャーフォトというのが、いいのでしょう。それでも、私のところにある「風景写真」とカメラ雑誌の投稿には、花のアップ写真が結構載っているので、「風景写真」に入れてもかまわないのでしょう。

 そういう定義は、別として、冒頭で引用した宮嶋康彦の本の副題は、「2010年の花鳥風月」となっている。ここで、宮嶋康彦が問題としているのは、風景写真というと、結局のところ花鳥風月に行き着いてしまう。日本人というのは、結局そこへ行ってしまうのかということを問題としている。氏は、日光に住み着いて、戦場が原の奥の小田代原という原っぱに咲く一本の白樺の木を長年撮り続けたという。そして、それが有名になったのだろう。たくさんのカメラマンがその白樺を撮りに押しかけるようになった。朝、霧の中の白樺の光景がすばらしいのだという。ところが、霧が出ていなければ誰も見向きもしないのだと。氏は、それが日本の伝統美に縛られているためだと言う。私の憶測だが、おそらく、その白樺の木は、宮嶋康彦が世に出したのだろう。そして、その発表した写真の中でも、霧の写真がすばらしかったのだろう。それと同じ写真を撮ろうと、日本中からカメラマンが押しかけている。たぶんそんなところなのではないか。

 さて、花の写真。花鳥風月である。この花とは桜をさすのかもしれないが。そういう意味では、私も花鳥風月に縛られている。

 今日は、風景写真を一枚アップしてみます。聖湖の写真で、シンメトリーの画面構成にこだわった以外は、これといって、とりえのない写真だけれど。

初秋の聖湖 千曲市聖高原 2006/9/24

2006/9/26 火曜日

風景写真論 (6)

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 20:29:03

 デジカメ一眼レフの利点がもうひとつあった。それは、たくさん撮れるということだ。プロのカメラマンは、一つのシーンを何枚くらい撮るのか知らないけど、段階露出にしたり、画角を変えたり結構撮るのではないだろうか。フィルムだとやはり経済的に大変なのである。デジカメだと、何枚でも撮れる。半日出かければ100枚くらいは、撮ってくる。この利点は、大きい。

 その上、一眼レフデジカメだとRAWという形式で撮れる。これだと、プラマイ一段くらいの露出の変更もできるし、ホワイトバランスの変更もできる。これは、便利だ。

 デジカメは、フィルムカメラとどこが違うのだろうか。一眼レフとして基本的には同じだと思うのだが、今まで述べたとおり、私には決定的に違う気がする。だから、私は、一眼レフデジカメを買ってからが、私のカメラ歴だと思っている。そうなると、1年半というのが、私のカメラ歴ということになる。

ホウズキ 長野市小花見池附近

2006/9/25 月曜日

風景写真論 (5)

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 21:27:08

 デジタル一眼レフが、新しいカメラを趣味とする一団を作り上げるのではないかという予感がする。前に言及した老齢のカメラ愛好者集団は、たぶん、フィルムカメラが多いはずだ。カメラの愛好者の老人クラブというのがあるのだろうと想像する。そして、集団で移動し、また、そのクラブで個展を開いたりしているのだろう。

 写真の楽しみは、やはり大きく引き伸ばすことだが、それなりにお金がかかる。今までのカメラ愛好者たちは、仲間と個展を開いたり、カメラコンテストに応募したりして、作品を人目にふれさせることにより、よりいい写真を撮ろうと励んできたことだろう。写真を撮る背景には、大きな写真を他の人に見てもらって、「いい写真ですね」と言ってもらいたい野心があるはずだ。しかし、そこまでやるには、それなりの投資が必要なのだと私は思う。そして、今までは、経済的に考えてそこまでやる気がなかった。

 ところが、デジタルカメラは、それらを解決してしまった。別にコンテストに応募しなくても、このブログのように自分の作品を人目に触れさせることができる。そして、大きく印刷することもそれほと゛経費をかけずにできるし、パソコン画面いっぱいにして見ていれば十分満足できるのである。まだ先のことはわからないけれど、私は、カメラ同好会みたいところに入りたいとは思わない。自分で歩いて、いいと思ったものを撮ればいいわけで、人と歩けば、必ずその人に影響されるに決まっている。仲間内で批評しあうことは、いいことだと思うが、批判されると内心いやな気持ちになることもあるだろう。自己満足でいいではないかと思う。デジタルカメラとインターネットがそういうカメラマニアをこれからどんどんと作り出してゆく気がするのである。

 私の風景写真論は、そういう環境を前提に展開してゆこうと思う。

ツリガネニンジン 千曲市大池 2006/09/24撮影

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