きのうは、土曜日なのに出勤で、きょうの日曜日はゆっくりしたいところでしたが、下の娘が部屋が狭くなってきたので、いらないものをとりに来てとかいわれて、行ってきました。ついでに、買い物というわけで、塩尻と松本をアッシーさせられて、一日つぶれてしまいました。ETCを付けたので、行き帰りとも高速代が半分になったのが、なんだかうれしい。
さて、前回に引き続いて落語論を少しは、展開しましょう。
桂文楽、古今亭志ん生、桂三木助という名前を出して、ピンとくる方でしたら、落語ファンなのでしょう。三遊亭圓生、林家彦六、柳家小さんという名前を出しても、普通の人は忘れているのでしょう。みんな故人です。前の三人の落語は、桂文楽の落語を一席聞いた以外、わたしは、直接聞いたことがありません。私が、落語が好きで寄席とか落語会に行っていたのは、30年近く前の話なのです。その時、古今亭志ん生はすでに故人になっていました。
それでいて、市立図書館にある落語のCDは、志ん生のものがいちばん多いですし、私の車の中には、志ん生や文楽の落語のCDばかりが入っているのです。私は、今、立川談志の遺言大全集を読んでいて、その中で繰り返し述べられる落語に対する愛着とそれが「古典芸能」として滅び行くことにたいする嘆きを談志のいらだちの中で読み取っています。
談志が、圓生や小さんをいくら批判しても、落語ファンと呼ばれている人の多くは、私と同じように故人のCDを聞いて楽しんでいるのです。談志世代で聞くとすれば、志ん朝と小三治と談志と、圓楽を入れるかどうかは、好みになってしまうような気がします。
まして、談志の後の世代といえば、志の輔くらいしかあげられない。小朝や昇太、あるいは志らくなどの新しい試みを評価するけど繰り返し聴きたいとは思わないのです。
まさに落語は、「古典芸能」であり、「大衆芸能」と呼ぶには、それを支持するファンは、インテリ階級になっているのです。落語家自身が大学出があたりまえなのですから。
談志は繰り返し、「テレビ」というメディアが世界を支配している中で落語をどのように生き延びて行くべきかを考えているのですが、そして、彼自身、それが無理だとわかっているのですが、私もそういう意味では、落語がテレビで「大衆芸能」として脚光をあびることなどもうないのだと絶望しています。
その絶望の中で、落語論を展開してみたい。
今日の一枚は、大峰高原の有名な大カエデの写真。紅葉の時期には、群れているカメラマンが一人もいなくて、静かでした。雪に落ちた木の影を通して、木の生命感を表現したいと思いました。冬になって、木がまる裸になったとき、私はその生命感をすごく感じます。冬の写真はそんな写真ばかりです。