落語あるいは落語家論 その七
落語家の好き嫌いはいろいろあるだろうが、評価というものは、有る程度できあがってしまうものだろう。お笑い三人組で顔を売った今の三遊亭金馬とその師匠である先代の金馬を比較して、今の金馬のほうがうまいという落語ファンはまずいないだろう。師匠がかならずしも弟子よりうまいわけではないが、なかなか先代を超えるのは大変だと思う。三木助のように親父を越えられず自殺してしまったものも出てくるくらいである。
落語家の比較論といえば、志ん生VS圓生 志ん生VS文楽などが昔行われたが、今はどうなのであろう。小さんVS談志なんていうのもおもしろいかもしれない。これは、ファンによって相当意見が分かれる比較だろう。談志の言い分をみとめて、リアリティを守った小さんを否定的に見るファンもいるだろうが、落語ファンの多くは、小さんに軍配を上げる気がする。小さんは、やはりうまい。私は、それほど好きでなくて、どっちかというと談志の肩を持ちたいが、うまさということではやはり小さんではないだろうか。
こういう比較論は、ある意味くだらない。いろいろな噺家の個性があってこそ「落語」なのではないか。談志の「芝浜」と三木助の「芝浜」を比較したいとは思わない。両方、聞いてみたくなる。それでいて、最近の噺家の「芝浜」の印象がない。前回と同じ結論だが落語界のいきづまりをその辺に感じてしまうのである。
今日の一枚は、志賀高原で撮った写真。山の斜面に朝日があたったところです。
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