落語あるいは落語家論 その六
明日から三連休。たまにはいい天気になって欲しいものだけど。
さて、落語の話を続けよう。そろそろマニアの話になって来そうである。落語ファンというのは、いろいろあるのだろうが、「本格派」という落語を好むというか上位に見る傾向があるのかもしれない。実は、私もそうで、「人情噺」こそ本格派だと思っていた節がある。三遊亭圓朝作のものに代表されるが、「牡丹灯篭」「真景累ヶ渕」のような怪談噺や「文七元結」のような人情噺で、一席の時間が長く、力量が試される。三遊亭圓生や古今亭志ん生などは今でもよく聞く。一方、落し噺といおうかサゲがついているいわゆる落語は、先代の柳家小さんなどの一門になんとなく代表される。さて、落語ファンによく聞く落語家はと問えば、前述の古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、桂文楽、桂三木助、三代目三遊亭金馬などの名前があがり続いて古今亭志ん朝とここまでは、みんな故人で、あと、立川談志、柳家小三冶あたりが出てくるだろうかこの辺の名前をあげておけばファンということになるのかもしれない。
その次の世代の噺家はあげづらい。立川志の輔、立川志らく、春風亭小朝、春風亭昇太くらいは指を折ってもいいが、桂歌丸をあげる落語ファンはいないのではないか。実は、前述の「人情噺」やる噺家はいろいろいるのである。五街道雲助とか柳家さん生とかたくさんいるけど、聞いていて面白くない。これなら、圓生のテープを聴いていたほうがいいと思ってしまうのである。本格派をめざすあまり、「リアリズム」に凝り固まってしまっている。
落語がかかえている問題はここにあるような気がする。
今日の一枚も相変わらず木の写真。
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