2008/2/8 金曜日

落語あるいは落語家論 その六

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 22:19:33

 明日から三連休。たまにはいい天気になって欲しいものだけど。

 さて、落語の話を続けよう。そろそろマニアの話になって来そうである。落語ファンというのは、いろいろあるのだろうが、「本格派」という落語を好むというか上位に見る傾向があるのかもしれない。実は、私もそうで、「人情噺」こそ本格派だと思っていた節がある。三遊亭圓朝作のものに代表されるが、「牡丹灯篭」「真景累ヶ渕」のような怪談噺や「文七元結」のような人情噺で、一席の時間が長く、力量が試される。三遊亭圓生や古今亭志ん生などは今でもよく聞く。一方、落し噺といおうかサゲがついているいわゆる落語は、先代の柳家小さんなどの一門になんとなく代表される。さて、落語ファンによく聞く落語家はと問えば、前述の古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、桂文楽、桂三木助、三代目三遊亭金馬などの名前があがり続いて古今亭志ん朝とここまでは、みんな故人で、あと、立川談志、柳家小三冶あたりが出てくるだろうかこの辺の名前をあげておけばファンということになるのかもしれない。

 その次の世代の噺家はあげづらい。立川志の輔、立川志らく、春風亭小朝、春風亭昇太くらいは指を折ってもいいが、桂歌丸をあげる落語ファンはいないのではないか。実は、前述の「人情噺」やる噺家はいろいろいるのである。五街道雲助とか柳家さん生とかたくさんいるけど、聞いていて面白くない。これなら、圓生のテープを聴いていたほうがいいと思ってしまうのである。本格派をめざすあまり、「リアリズム」に凝り固まってしまっている。

 落語がかかえている問題はここにあるような気がする。

 今日の一枚も相変わらず木の写真。

冬の樹

2008/2/2 土曜日

落語あるいは落語家論 其の五

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 21:48:35

 もう二月になってしまった。

 落語についてなら、相当量書ける自信があるが、どうしてもマニアの世界に入ってしまうので、できるだけふつうの人でもわかることを書きたいものだが、だんだんマニアの世界になってゆくのかもしれない。立川談志遺言大全集の一部を最近読んだので、それに対する私の意見というところもある。

 落語は、能狂言、あるいは歌舞伎のように「大衆芸能」ではなく「古典芸能」となってしまったあるいは、なってしまうだろうというのが、談志の危惧するポイントであり、私も同意見なのである。「大衆芸能」となるには、あまりに落語は知性的なのである。「エンタの神様」で笑い転げる若い女性に理解してもらう必要はないのだと自分に言い聞かせる。江戸から明治にかけての文化を知らずして落語は理解できない。最近、テレビでは「雑学」クイズがおおはやりで、その中で、知性のないのを売りとしている芸能人があまたいるけれど、今の若い人の多くは同じようなものではないのかと思うときがある。同じことを、自分自身にも言えるかもしれない。狂言や歌舞伎にたいしての知識はほとんどゼロに近いのである。情けないことだが、勉強しないと理解できないだろう。そして、多くの落語もそうなのだろうと思う。

 談志は、寄席というものを否定しつつ、その郷愁にかられている。私も20代前半の東京の近辺に住んでいたときは寄席に通い、その楽しさをしっているのだが、いざ、地方に住んでしまうと、談志のように寄席をとらえることができない。地方で落語に接することができるのは、年に数回の独演会だったり、二人会だったりで、それは寄席ではない。色物が間に入る寄席の楽しさとは別物なのである。

 地方にいて、寄席を楽しむことができないだろうか。私は、そんなことを考える。そして、そこに、落語の発展の可能性を見出すのである。たとえば、鈴本や末広亭の寄席中継などできないだろうか。大型スクリーンを用意して、バーチャルで楽しめれば、鈴本くらいの会場なら、長野市あたりでもいっぱいになりはしないだろうか。それと、実際の生の芸人の芸を組み合わせれば、地方都市でも「寄席」は成り立たないだろうか。

 落語の発展を言うのならば、もっともっと、地方で楽しめる催しがたくさんあってもいいのではないか。それは、「大衆芸能」ではなくても、一つの文化としてあると思う。ただし、「芸術」になって欲しくないのである。

 冬の樹

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