2008/2/11 月曜日

ブログとSNS

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 19:38:19

 このブログを運営している友人がSNSを始めました。ブログも、ログですから、「日誌」でSNSのほうにも「日記」があり、どちらを使用するかややこしいところです。私としては、ブログは、オープンなもの(といっても、世間一般の人に見られているという意識はあまりないのですが)として扱い、SNSの日記には、「日記」に近いものを書き込めればと思います。

 あるいは、写真の発表の場をブログにして、今までどおり記事に必ず写真をつけるけど、日記の方には、その記事と関連した写真があれば付けるけど、文字だけでもいいことにしようと、そんなことを自分で決めています。ここにアップする写真は、それなりに気を使っているのですが、日記の方は、記事の説明的なものならなんでもありにしようと思います。

 このブログにコメントを寄せてくれた何人かの友人をSNSに誘ってみようかともおもっているのですが、もし、このブログを見た私の友人でSNSにもと言う方は、連絡してください。

 私は書くことは嫌いでなくて、テーマさえはっきりすればいくらでも書ける自信はあるのですが、下手な写真をアップする口実に何か書かないといけないわけで、今やっている「落語家論」はあまりに自分の世界過ぎたかなと、早々切り上げて、もう少し一般的なものと思っています。今考えているのは、「北信濃ガイド」みたいものが面白いのではないかなと思っています。

 今日の一枚、志賀高原の田ノ原湿原で、SNSのほうにも、ほぼ同じ位置から撮った写真をアップしました。SNSの方は、アップロードサイズが300K以下ですので、壁紙に使ってもらうにはこちらの方がいいのではと思っています。

志賀高原 田ノ原湿原

2008/2/9 土曜日

落語あるいは落語家論 その七

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 21:17:12

 落語家の好き嫌いはいろいろあるだろうが、評価というものは、有る程度できあがってしまうものだろう。お笑い三人組で顔を売った今の三遊亭金馬とその師匠である先代の金馬を比較して、今の金馬のほうがうまいという落語ファンはまずいないだろう。師匠がかならずしも弟子よりうまいわけではないが、なかなか先代を超えるのは大変だと思う。三木助のように親父を越えられず自殺してしまったものも出てくるくらいである。

 落語家の比較論といえば、志ん生VS圓生 志ん生VS文楽などが昔行われたが、今はどうなのであろう。小さんVS談志なんていうのもおもしろいかもしれない。これは、ファンによって相当意見が分かれる比較だろう。談志の言い分をみとめて、リアリティを守った小さんを否定的に見るファンもいるだろうが、落語ファンの多くは、小さんに軍配を上げる気がする。小さんは、やはりうまい。私は、それほど好きでなくて、どっちかというと談志の肩を持ちたいが、うまさということではやはり小さんではないだろうか。

 こういう比較論は、ある意味くだらない。いろいろな噺家の個性があってこそ「落語」なのではないか。談志の「芝浜」と三木助の「芝浜」を比較したいとは思わない。両方、聞いてみたくなる。それでいて、最近の噺家の「芝浜」の印象がない。前回と同じ結論だが落語界のいきづまりをその辺に感じてしまうのである。

 今日の一枚は、志賀高原で撮った写真。山の斜面に朝日があたったところです。 

朝日があたって   

2008/2/8 金曜日

落語あるいは落語家論 その六

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 22:19:33

 明日から三連休。たまにはいい天気になって欲しいものだけど。

 さて、落語の話を続けよう。そろそろマニアの話になって来そうである。落語ファンというのは、いろいろあるのだろうが、「本格派」という落語を好むというか上位に見る傾向があるのかもしれない。実は、私もそうで、「人情噺」こそ本格派だと思っていた節がある。三遊亭圓朝作のものに代表されるが、「牡丹灯篭」「真景累ヶ渕」のような怪談噺や「文七元結」のような人情噺で、一席の時間が長く、力量が試される。三遊亭圓生や古今亭志ん生などは今でもよく聞く。一方、落し噺といおうかサゲがついているいわゆる落語は、先代の柳家小さんなどの一門になんとなく代表される。さて、落語ファンによく聞く落語家はと問えば、前述の古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、桂文楽、桂三木助、三代目三遊亭金馬などの名前があがり続いて古今亭志ん朝とここまでは、みんな故人で、あと、立川談志、柳家小三冶あたりが出てくるだろうかこの辺の名前をあげておけばファンということになるのかもしれない。

 その次の世代の噺家はあげづらい。立川志の輔、立川志らく、春風亭小朝、春風亭昇太くらいは指を折ってもいいが、桂歌丸をあげる落語ファンはいないのではないか。実は、前述の「人情噺」やる噺家はいろいろいるのである。五街道雲助とか柳家さん生とかたくさんいるけど、聞いていて面白くない。これなら、圓生のテープを聴いていたほうがいいと思ってしまうのである。本格派をめざすあまり、「リアリズム」に凝り固まってしまっている。

 落語がかかえている問題はここにあるような気がする。

 今日の一枚も相変わらず木の写真。

冬の樹

2008/2/2 土曜日

落語あるいは落語家論 其の五

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 21:48:35

 もう二月になってしまった。

 落語についてなら、相当量書ける自信があるが、どうしてもマニアの世界に入ってしまうので、できるだけふつうの人でもわかることを書きたいものだが、だんだんマニアの世界になってゆくのかもしれない。立川談志遺言大全集の一部を最近読んだので、それに対する私の意見というところもある。

 落語は、能狂言、あるいは歌舞伎のように「大衆芸能」ではなく「古典芸能」となってしまったあるいは、なってしまうだろうというのが、談志の危惧するポイントであり、私も同意見なのである。「大衆芸能」となるには、あまりに落語は知性的なのである。「エンタの神様」で笑い転げる若い女性に理解してもらう必要はないのだと自分に言い聞かせる。江戸から明治にかけての文化を知らずして落語は理解できない。最近、テレビでは「雑学」クイズがおおはやりで、その中で、知性のないのを売りとしている芸能人があまたいるけれど、今の若い人の多くは同じようなものではないのかと思うときがある。同じことを、自分自身にも言えるかもしれない。狂言や歌舞伎にたいしての知識はほとんどゼロに近いのである。情けないことだが、勉強しないと理解できないだろう。そして、多くの落語もそうなのだろうと思う。

 談志は、寄席というものを否定しつつ、その郷愁にかられている。私も20代前半の東京の近辺に住んでいたときは寄席に通い、その楽しさをしっているのだが、いざ、地方に住んでしまうと、談志のように寄席をとらえることができない。地方で落語に接することができるのは、年に数回の独演会だったり、二人会だったりで、それは寄席ではない。色物が間に入る寄席の楽しさとは別物なのである。

 地方にいて、寄席を楽しむことができないだろうか。私は、そんなことを考える。そして、そこに、落語の発展の可能性を見出すのである。たとえば、鈴本や末広亭の寄席中継などできないだろうか。大型スクリーンを用意して、バーチャルで楽しめれば、鈴本くらいの会場なら、長野市あたりでもいっぱいになりはしないだろうか。それと、実際の生の芸人の芸を組み合わせれば、地方都市でも「寄席」は成り立たないだろうか。

 落語の発展を言うのならば、もっともっと、地方で楽しめる催しがたくさんあってもいいのではないか。それは、「大衆芸能」ではなくても、一つの文化としてあると思う。ただし、「芸術」になって欲しくないのである。

 冬の樹

2008/1/27 日曜日

買っちゃった

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 8:04:13

 きのうは、朝、戸隠まで写真を撮りに行きました。キャンプ場をめざして行ったのですが、駐車場は雪で埋もれていて入れません。森林植物園も同じ状態。車を止めるところがなく、中社まで戻ってきました。今年は、カンジキを買ったので、それをはいて小鳥が池まで行ってみようと試みたのですが、雪がやわらかくて、2,30センチは沈むので危険を冒したくないのでやめて帰って来ました。結局、戸隠ではシャッターおさずじまい。帰りに、飯綱の白樺の森で、カンジキはいて、何枚か写真を撮ってきました。

 夕方、注文していたプリンタキャノンPIXSUS Pro9000が届きました。今までのプリンタが4色インクだったので写真用にもう少しいいのと思っていたのですが、結局、A3まで印刷できるやつにしてしまいました。A3だから、設置面積もそのくらいだろうと思っていたのですが、デカイ。予定していた棚の上にはとても無理で、机の上に置くことにしましたが、パソコンでないデスクトップが完全に占領されてしまいました。

白樺の森

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