落語あるいは落語家論 その八
ブログに書く記事にこまって始めた落語家論だが、SNSにも日記を書くことにしたので、この辺で打ち切ってブログは、日記とは別の形で運用するのがいいようである。
ピン芸人論の延長で始めた落語家論であるが、幸いなことに、落語の世界は、すでに視聴率の世界からオミットされてしまっている。エンタの神様の観客では理解できない芸になっている。(そんな風に断定してはいけないが、あのくだらないギャグに笑えるというのが観客の知能レベルを示しているとしか思えない)。もはや「古典芸能」としてしか歩む道がなさそうだというのが、どうやら結論である。
では、談志、志ん朝に続く落語家はいないのか。絶望なのか。地方にいる私は今の寄席を見ていないので、落語界の現在を知らない。
知っている一人に立川志の輔がいる。「試してガッテン」と家庭教師のコマーシャルなどでテレビでも売れている。はじめ、この人の落語を聞いたときは、師匠談志のコピーだと思っていたけど、いくつか聞いているうちに志の輔ワールドというものを感じるようになった。WOWOWで独演会を放映するくらいだから、若い人にも受け入れられているのだろう。若い人に落語を好きになってもらう格好の噺家ではないだろうか。
同じ立川流に志らくがいる。シネマ落語で売っている。長野での公演を見に行った。テンポのいい落語だが、もうひとつ魅力が欠ける。年齢を重ねるに従ってどうなるのか。不安と楽しみが交錯する噺家である。
柳家喬太郎という噺家も好きだ。新作もいい。雰囲気が楽しく人気者になって欲しい。
落語家というと笑点のメンバーと林家正蔵あたりが話題になるけど、ほとんど落語を聴いたことがない。歌丸は、圓朝ものなど大ネタをやっているけど、もうすこし軽い噺のほうがこの人には合うのにと思う。死に際には誰もそういうものかもしれない。昇太は、楽しい。古典も自分の土俵でやっていて、いいのではないだろうか。
とにかく、地方にいると落語を聴く機会が少ない。このへんでやめよう。
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