俳句論2
俳句論なる連載を始めたが、それよりもアップする写真がなくて困った。全然撮りに行ってないわけではないが、ろくな写真しかなくて、アップする気になれない。情けない限りである。きょうも虫倉山を撮ったうちの一枚だが一枚として満足ゆくものがなかった。中条の上のほうも雪がなくて、「晩秋」といっても通ってしまう。それでも、一枚はアップすることにしているので。
さて、俳句と写真というのは、かなり共通点がある。それについては、後でいろいろ述べるとして、俳句の「写生」ということを考えてみる。正岡子規が主張したことで、言葉を使ったデッサンとでもいうのだろうか。俳句では、虚子に受け継がれ「ホトトギス」派になり、短歌は、「アララギ」派に引き継がれていくというのが、学生時代に教わった文学史の知識なのだが。私は、写真を撮り始める前から、俳句には興味があって、図書館からに入門書を借りて読むことがあったのだが、ほとんど俳句ができないのである。「写生」という言葉が頭にうかび、見た目を五七五にまとめればいいと思うのだが、つまらないのである。季語をひとつ選びその季語の俳句を作ろうともしたが、やはりつまらないのである。感動もないものを言葉の組み合わせを楽しんだとてつまらないというのが実感で、この気持ちを今でも持っている。
では、どんな句が感動的かというと、実は、わからない。
遠山に日の当たりたる枯野かな 虚子
ほとんどの入門書に載っているから名句なのだろう。写真を撮っているものからすると、山の一部に西日が当たっている光景は絵になると想像がつくのだが、いったいこの句を読んでどのくらいの感動があるというのだろうとふと思ってしまうのである。
「写生」の句とは、こういうものだろうか。
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