2007/2/14 水曜日

春を探して 2

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 20:32:51

 先日やっと見つけた咲いている福寿草をアップします。

 最近、このブログも検索ロボットみたいもので探されるのかトラックバックで時々書き込みがあります。特にシラヒゲソウの記事には、しょっちゅうトラックバックされます。この記事にシラヒゲソウと書いたので、もし、この文字列がひっかかっているのなら、この記事にもトラックバックがありそうです。spamメールといい、不愉快なこともインターネットは多いですね。

 不愉快といえば、マウスコンピュータ。Webからサポート依頼を書き込んで、受付確認の自動メールは来たのですが、いつまでたっても、正式の回答メールがこない。速く、修理したいのに、ひどいものです。マウスコンピュータなど買うのではなかったと反省しております。

フクジュソウ 長野県四賀村

 

2007/2/12 月曜日

春を探して 1

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 19:16:42

 今まで妻が普通車のスパシオに乗って、私が軽のアルトに乗っていました。通勤距離は、妻ほうがずっと遠いのに、マニュアル車はイヤという理由からです。燃費も悪く、私のアルトがだいぶおかしくなってきて、ついにタントに買い換えました。今度は、オートマ車なので、私がスパシオを乗ることとなりました。

 今までの愛車のアルト。小さいけれどよく走ってくれました。四駆なので、雪があってもそれほど恐れずに走りましたが、車高が低いのでちょっと深いわだちになっているとためらってしまいました。軽のいい点は、小回りが効くので、狭い田んぼの間の道などもかなり大胆につっこんでゆけました。間違えと気がついても、ちょっとしたスペースで方向転換できました。山の中を走るには、ちょっとしたスペースに止めておけるし、利点も多かったです。

 今度は、普通車を御下げ渡しになったので、利点はなんだろうなと考えると、やっぱりパワーでしょう。アルトだと高速に乗って、どこかに行くという発想になかなかならなかったのですが、普通車だと高速でもストレスなしに走れます。そこで、今日は、記念に高速に乗って、みました。

 ねらいは、福寿草。普通だと3月の声を聞かないと無理でしょうが、この陽気です。群れは無理にしてもポツポツは咲いていないかなという期待でインターネットをみたら、四賀村の群生地のレポートで、2月5日の日付でまだツボミという情報。でも、一週間たっているからいくつかは咲いているだろうと行ってみました。

 結果は、まだツボミ。それでも開きかけの花を見つけて何枚も写真を撮って来ましたが、今日の一枚は、まだツボミの写真です。でも、これだけ暖かいと斜面一面が福寿草に覆われる日も近いなと感じました。

福寿草 暖冬とはいえまだつぼみ  四賀村  2007/2/12

2007/2/11 日曜日

俳句論3

Filed under: 詩と写真のサロン — kurasan @ 16:51:54

 詩の定義というかどういうものを詩と呼ぶのかは、私は伊藤信吉の「詩とは、イメージの結晶である」という言葉を採用する。俳句も短歌も詩の一種である。それから、どのようなイメージが喚起されるかが詩の命だと思う。そして、イメージであるから、それは、受け手によって違うものだということを確認しておきたい。そういう意味では、詩の上で優劣の話をするのはナンセンスなのだと思う。

 さて、前回虚子の遠山の句がわたしにとってそれほどイメージを喚起しなかったと書いた。今回書く間、私は、この句をなんども思い浮かべた。写真のイメージでいえば足元に広がる枯野にはもう陽が当たっていない。目を上げれば遠くの山の頂だけに西日が当たっている。枯野をシャドーで黒く落し、遠くの山をハイライトで強調する。そんな写真。できれば、この遠山は、真っ白くなった高山でありたい。木がある里山ではちょっと物足りない。紅葉した山も絵にはなる。

 たぶん私は、この句を写真の中に入れ込むようなそんな風景をモチーフにすることがあるに違いない。写生の句は、そういう意味で都合がいい。しかし、イメージを読み手と共有するには無理がある。写真の賛とか紀行文の中に句をはさむことによって、はじめてその句が生きるのである。芭蕉の奥の細道は、だからすばらしい。あの中の句をただ句集に収録しても、もっと、平凡なものになっていただろう。いろいろな俳人の句集を見ても、前書きがやたら多い。俳人は、17文字で世界で一番短い定型詩だとえばっているけど、前書きを数に入れればけっこう長い。

 さて、写生に話しを戻すと、デッサンみたい練習に写生することによって、俳句の技法を学ぼうというわけだろうけど、詩というものは、まず感動があるべきだと思う。これは、写真も同じではないだろうか。美しい風景や花に出会ったとき、その感動をなんとかしたいということから詩は、生まれるし、また、写真だって同じではないだろうか。

 ただ、感動を表現する表現力が問題ではある。これは、俳句も写真も同じで研鑽が必要なのは確かなことだ。

 私が遠山の句に始めそれほど感動を覚えなかったのは、確かである。言葉が平易すぎることによって、イメージが結晶するインパクトが弱かったともいえる。

 流れ行く大根の葉の早さかな

 これも虚子の代表句であるが、そんなにすごい句なのかなと思ってしまう。もはやこの句から平凡なイメージしか得られないだけ刺激の強い言葉で感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。それは、私が現代詩なるものに親しんできたからかもしれない。

 今日の写真は、今やあちこちで見られるようになった野外彫刻というものを入れた写真であるが、石仏ほどにも感動を受けないのだ。自然の樹木の作るオブジェに比べて醜いと言ってはいけないのだろうか。

野外彫刻のある風景 長野市城山公園(携帯)

 

2007/2/10 土曜日

パソコンが壊れた

Filed under: 今日の一枚 — kurasan @ 20:52:25

 昨日のよるパソコンを立ち上げようとしたら立ち上がらない。電源を入れなおしたらこんどはいきなりBIOSの画面になって、パスワードを要求してきた。パスワードを設定した覚えもないし、いきなりBIOS画面になるのもおかしい。ちょっと手に負えそうもないので、修理にだすこととしたが、せっかくの連休も古いパソコンしか使えない状態だ。今時、パソコンなどどこのメーカーでも同じだと思って買ったのだが、mouse computerじゃしかたがないのかと残念。

 ハードディスクは大丈夫かと、USBで繋いでみたらちゃんと読み出せるのがわかったので、ひとまず安心。たぶんマザーボードの交換になるのかな。今回は、多少かかっても修理するしかないけど、思わぬ出費を余儀なくされそうである。

 VISTAにすぐ飛びつくほど余裕はない。MS−DOSのころ、新しいバージョンが次々出たけど、ひどいのもあったとマイクロソフトがOSを出すたびに思い出す。まあ、一年近くたって、サービスパック1が出るころ買うほうがいいだろうと思っている。

 しかし、パソコンを買い換えるたびにデータはまだしも、プログラムを入れなおす必要があり、ひどい商品だと思う。消費者の利便性などまったく考えていなくて、数万円するのだからむちゃくちゃである。メーカーも修理規定を読めば、ハードディスクは初期化して出荷段階に戻してお返ししますなんてこと書いてあって冗談じゃねえよと言いたくなる。パソコンなんていう商品は、近い将来なくなるに違いないと故障するたびに思う。もっとも、そういう手がかかる商品だから、私の会社での席もあるわけだけど。

 今日の一枚をどうしようと今になって気がついて、携帯電話に入っているのを使うこととした。朝、出勤前に城山公園で撮ったものである。しかし、出勤途中の会社員が公園に入ってきて、携帯電話を取り出すや写真を撮りはじめたなんていう光景は、アヤシイだろうなと我ながら思うのである。

城山公園にて (携帯電話)

2007/2/6 火曜日

俳句論2

Filed under: 詩と写真のサロン — kurasan @ 21:04:36

 俳句論なる連載を始めたが、それよりもアップする写真がなくて困った。全然撮りに行ってないわけではないが、ろくな写真しかなくて、アップする気になれない。情けない限りである。きょうも虫倉山を撮ったうちの一枚だが一枚として満足ゆくものがなかった。中条の上のほうも雪がなくて、「晩秋」といっても通ってしまう。それでも、一枚はアップすることにしているので。

 さて、俳句と写真というのは、かなり共通点がある。それについては、後でいろいろ述べるとして、俳句の「写生」ということを考えてみる。正岡子規が主張したことで、言葉を使ったデッサンとでもいうのだろうか。俳句では、虚子に受け継がれ「ホトトギス」派になり、短歌は、「アララギ」派に引き継がれていくというのが、学生時代に教わった文学史の知識なのだが。私は、写真を撮り始める前から、俳句には興味があって、図書館からに入門書を借りて読むことがあったのだが、ほとんど俳句ができないのである。「写生」という言葉が頭にうかび、見た目を五七五にまとめればいいと思うのだが、つまらないのである。季語をひとつ選びその季語の俳句を作ろうともしたが、やはりつまらないのである。感動もないものを言葉の組み合わせを楽しんだとてつまらないというのが実感で、この気持ちを今でも持っている。

 では、どんな句が感動的かというと、実は、わからない。

    遠山に日の当たりたる枯野かな   虚子

 ほとんどの入門書に載っているから名句なのだろう。写真を撮っているものからすると、山の一部に西日が当たっている光景は絵になると想像がつくのだが、いったいこの句を読んでどのくらいの感動があるというのだろうとふと思ってしまうのである。

 「写生」の句とは、こういうものだろうか。

冬の虫倉山

 

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