詩の定義というかどういうものを詩と呼ぶのかは、私は伊藤信吉の「詩とは、イメージの結晶である」という言葉を採用する。俳句も短歌も詩の一種である。それから、どのようなイメージが喚起されるかが詩の命だと思う。そして、イメージであるから、それは、受け手によって違うものだということを確認しておきたい。そういう意味では、詩の上で優劣の話をするのはナンセンスなのだと思う。
さて、前回虚子の遠山の句がわたしにとってそれほどイメージを喚起しなかったと書いた。今回書く間、私は、この句をなんども思い浮かべた。写真のイメージでいえば足元に広がる枯野にはもう陽が当たっていない。目を上げれば遠くの山の頂だけに西日が当たっている。枯野をシャドーで黒く落し、遠くの山をハイライトで強調する。そんな写真。できれば、この遠山は、真っ白くなった高山でありたい。木がある里山ではちょっと物足りない。紅葉した山も絵にはなる。
たぶん私は、この句を写真の中に入れ込むようなそんな風景をモチーフにすることがあるに違いない。写生の句は、そういう意味で都合がいい。しかし、イメージを読み手と共有するには無理がある。写真の賛とか紀行文の中に句をはさむことによって、はじめてその句が生きるのである。芭蕉の奥の細道は、だからすばらしい。あの中の句をただ句集に収録しても、もっと、平凡なものになっていただろう。いろいろな俳人の句集を見ても、前書きがやたら多い。俳人は、17文字で世界で一番短い定型詩だとえばっているけど、前書きを数に入れればけっこう長い。
さて、写生に話しを戻すと、デッサンみたい練習に写生することによって、俳句の技法を学ぼうというわけだろうけど、詩というものは、まず感動があるべきだと思う。これは、写真も同じではないだろうか。美しい風景や花に出会ったとき、その感動をなんとかしたいということから詩は、生まれるし、また、写真だって同じではないだろうか。
ただ、感動を表現する表現力が問題ではある。これは、俳句も写真も同じで研鑽が必要なのは確かなことだ。
私が遠山の句に始めそれほど感動を覚えなかったのは、確かである。言葉が平易すぎることによって、イメージが結晶するインパクトが弱かったともいえる。
流れ行く大根の葉の早さかな
これも虚子の代表句であるが、そんなにすごい句なのかなと思ってしまう。もはやこの句から平凡なイメージしか得られないだけ刺激の強い言葉で感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。それは、私が現代詩なるものに親しんできたからかもしれない。
今日の写真は、今やあちこちで見られるようになった野外彫刻というものを入れた写真であるが、石仏ほどにも感動を受けないのだ。自然の樹木の作るオブジェに比べて醜いと言ってはいけないのだろうか。