リタイアしたら、やろうかなと思っていたことに、俳句か短歌のカルチャースクールに入ってみようかということがある。私は、写真も拓本も趣味は本から学ぶことで、それなりに楽しんできた。俳句も短歌も本から学べばそれなりの成果を得られると思う。俳句の場合、句会というものがあり、この集りの中で俳句を楽しむのが、本来の俳句の楽しみ方だろう。カルチャースクールはどういう形態かわからないが、近いものかもしれない。
カルチャースクールということになると短歌もある。今は、図書館から、俳句と短歌のそれぞれの入門書を借りてきて読んでいるので、どちらも魅力があり、関心がある。それでいて、どちらもそれほど作れない。
カルチャースクールを考えているのは、人と会う機会を作りたいからだ。ネットでも俳句や短歌の投稿サイトがあるが、人と関わる時間というものを作れればなと思う。
さて、ここまでやりたいことの背景を書いてから、俳句、短歌そして、詩を比較してみたいと思う。特に俳句と短歌はどちらを選ぶかという問題がある。文学史的に見て、この両方をやっている人は少ない。正岡子規がまっさきに思い出されるが、あとは寺山修司くらいしか思い出せない。俳句と短歌は表現するものが違うと思われるがこれはなぜなんだろう。
俳句も短歌も定型詩というカテゴリーに分類される。詩の中にも短詩というものがあり、俳句などと比較されることが多い。すべては詩に分類される。そして、詩とは何かということになる。ただ、今は、それには触れない。私は、短歌や俳句よりは詩というものに慣れ親しんできて、その詩を基準として短歌や俳句を見てみたい。戦後、桑原武夫が俳句、短歌をさして、第2芸術論を発表して、短歌、俳句界に衝撃を与えた。今は、過去のものとして見られている。私も昔読んでみて、実例の引き方などに我田引水的なところがあり言いがかり的な感じが確かにしたが、当たらずとも遠からずのところがあると思った。どうしても俳句、短歌には、老人が余生で楽しむ文学を感じてしまうのである。そして、余生の楽しみに俳句なり短歌を作れればと思う。
俳句と短歌の比較を書くことによって明確にして、どちらにしようか決められればとこの一文を書き始めたが、長くなりすぎたので、ここでひとまず区切りにしよう。