2007/3/14 水曜日

詩的ということ

Filed under: 詩と写真のサロン — kurasan @ 21:09:56

 きょうの写真は、少し前に携帯で撮ったものです。携帯の写真は、(一眼レフデジカメもそうですが)パソコンで確認するまでどう撮れているかわからないのですが、これは面白い写真になったと思った一枚です。じつは、詩か俳句でも付けられないかなとしばらくそのままにしていたのですが、詩というものは、考えてできるものでなくて、一つの言葉を核としてさっと言葉が結晶するようなところがあって、この写真を見ていてもそういうことはなくて、でも、なんとなく気に入った一枚です。「詩的」と呼べないかなと思いました。 

 そういう観点で写真というものを見るのもいいのではないでしょうか。プロの写真を見ても、きれいだなと感じても、「詩的」な感じを受けないものも多い。そういうものは、絵画的とでも呼ぶのでしょうか。一方、イメージが先行した写真を「詩的」とよんで分類することはできないかなとちょっと思うようになりました。「絵画的」よりも「詩的」な写真をめざしたい気がします。

朝のベンチ  2007/2/22 長野市雲上殿

 

2007/2/11 日曜日

俳句論3

Filed under: 詩と写真のサロン — kurasan @ 16:51:54

 詩の定義というかどういうものを詩と呼ぶのかは、私は伊藤信吉の「詩とは、イメージの結晶である」という言葉を採用する。俳句も短歌も詩の一種である。それから、どのようなイメージが喚起されるかが詩の命だと思う。そして、イメージであるから、それは、受け手によって違うものだということを確認しておきたい。そういう意味では、詩の上で優劣の話をするのはナンセンスなのだと思う。

 さて、前回虚子の遠山の句がわたしにとってそれほどイメージを喚起しなかったと書いた。今回書く間、私は、この句をなんども思い浮かべた。写真のイメージでいえば足元に広がる枯野にはもう陽が当たっていない。目を上げれば遠くの山の頂だけに西日が当たっている。枯野をシャドーで黒く落し、遠くの山をハイライトで強調する。そんな写真。できれば、この遠山は、真っ白くなった高山でありたい。木がある里山ではちょっと物足りない。紅葉した山も絵にはなる。

 たぶん私は、この句を写真の中に入れ込むようなそんな風景をモチーフにすることがあるに違いない。写生の句は、そういう意味で都合がいい。しかし、イメージを読み手と共有するには無理がある。写真の賛とか紀行文の中に句をはさむことによって、はじめてその句が生きるのである。芭蕉の奥の細道は、だからすばらしい。あの中の句をただ句集に収録しても、もっと、平凡なものになっていただろう。いろいろな俳人の句集を見ても、前書きがやたら多い。俳人は、17文字で世界で一番短い定型詩だとえばっているけど、前書きを数に入れればけっこう長い。

 さて、写生に話しを戻すと、デッサンみたい練習に写生することによって、俳句の技法を学ぼうというわけだろうけど、詩というものは、まず感動があるべきだと思う。これは、写真も同じではないだろうか。美しい風景や花に出会ったとき、その感動をなんとかしたいということから詩は、生まれるし、また、写真だって同じではないだろうか。

 ただ、感動を表現する表現力が問題ではある。これは、俳句も写真も同じで研鑽が必要なのは確かなことだ。

 私が遠山の句に始めそれほど感動を覚えなかったのは、確かである。言葉が平易すぎることによって、イメージが結晶するインパクトが弱かったともいえる。

 流れ行く大根の葉の早さかな

 これも虚子の代表句であるが、そんなにすごい句なのかなと思ってしまう。もはやこの句から平凡なイメージしか得られないだけ刺激の強い言葉で感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。それは、私が現代詩なるものに親しんできたからかもしれない。

 今日の写真は、今やあちこちで見られるようになった野外彫刻というものを入れた写真であるが、石仏ほどにも感動を受けないのだ。自然の樹木の作るオブジェに比べて醜いと言ってはいけないのだろうか。

野外彫刻のある風景 長野市城山公園(携帯)

 

2007/2/6 火曜日

俳句論2

Filed under: 詩と写真のサロン — kurasan @ 21:04:36

 俳句論なる連載を始めたが、それよりもアップする写真がなくて困った。全然撮りに行ってないわけではないが、ろくな写真しかなくて、アップする気になれない。情けない限りである。きょうも虫倉山を撮ったうちの一枚だが一枚として満足ゆくものがなかった。中条の上のほうも雪がなくて、「晩秋」といっても通ってしまう。それでも、一枚はアップすることにしているので。

 さて、俳句と写真というのは、かなり共通点がある。それについては、後でいろいろ述べるとして、俳句の「写生」ということを考えてみる。正岡子規が主張したことで、言葉を使ったデッサンとでもいうのだろうか。俳句では、虚子に受け継がれ「ホトトギス」派になり、短歌は、「アララギ」派に引き継がれていくというのが、学生時代に教わった文学史の知識なのだが。私は、写真を撮り始める前から、俳句には興味があって、図書館からに入門書を借りて読むことがあったのだが、ほとんど俳句ができないのである。「写生」という言葉が頭にうかび、見た目を五七五にまとめればいいと思うのだが、つまらないのである。季語をひとつ選びその季語の俳句を作ろうともしたが、やはりつまらないのである。感動もないものを言葉の組み合わせを楽しんだとてつまらないというのが実感で、この気持ちを今でも持っている。

 では、どんな句が感動的かというと、実は、わからない。

    遠山に日の当たりたる枯野かな   虚子

 ほとんどの入門書に載っているから名句なのだろう。写真を撮っているものからすると、山の一部に西日が当たっている光景は絵になると想像がつくのだが、いったいこの句を読んでどのくらいの感動があるというのだろうとふと思ってしまうのである。

 「写生」の句とは、こういうものだろうか。

冬の虫倉山

 

2007/2/4 日曜日

俳句論 1

Filed under: 詩と写真のサロン — kurasan @ 20:01:15

 前回は、携帯電話のカメラで撮る風景写真ということで、連載形式で書いたのですが、毎回テーマを変えてかくよりずいぶん楽だった。テーマが決まっていると次にこんなことを書こうと予定ができるためだろう。ブログというのは、ログであるから、日誌的にかくべきなのだろうが、サラリーマンというのは、決まった時間に家を出て、会社で仕事をして家に帰って寝る。会社が近い私でも、一日のうちの12時間を会社のために費やしている。それが、サラリーマンなのだろう。といって、会社の仕事のことを書く気にはなれない。日常生活に埋没して生きる中で、会社と私生活をきっぱり分けたいと思う。私生活も会社生活と同じようにほとんど変化がない。サラリーマンの日誌とはたいくつなものだ。

 さて、何をテーマについて書こうかと思ったところ最近読んだ2冊の本から、俳句について書いてみたいと思った。私は、ほとんど俳句を作らない。今回の本もそうだがそれなりに俳句作法の本を読んでいるのだが、ほとんど作れない。若い頃書いていた詩がいまはほとんどできないのと同じなのだろう。このブログの始めのころは、写真を掲げてそれに賛を付けるようにポエムを作れればと思って始めたのだが、結局だめだった。日常生活という変化のなさが詩を生み出さないのではないか。感情の起伏を日常生活のたいくつの中に封じ込めてこそ、サラリーマンの生き方になるのだろう。詩が生まれないのはそこにあるのかも知れない。

 俳句に興味が湧いたのは、「写生」という言葉からだった。だが・・。

見上げて  長野市坂中峠  2006/2/4

 

2006/6/25 日曜日

中野 重治

Filed under: 詩と写真のサロン — ezmaxy @ 20:01:10

赤まんまやとんぼの羽根を歌うなと
歌った詩人よ
今こそ私は歌うだろう
風にゆれるたんぽぽを
雨のなかにただよう金木犀の香りを

私たちにとってかけがえのないものを守るのは
権力でも階級に対してでもなく
人間
人間の欲望

たんぽぽ
 

中野重治の詩の呼びかけはいつも頭の中にあって、返歌みたい詩になった。名の知らない花をファインダーをのぞいて見てみるとどんな小さな花にも完成された美しさがあり、驚いてしまう。こういう自然がひとつまたひとつと失われていく気がする。上の写真は、タンポポではない。長い茎の上に花をつけているブタナという名だそうだ。道路沿いに見かけて、タンポポの一種類かと思っていたら、なんとも悲しい名前なのだ。      

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